ハラリの「ホモサピエンス全史」の下巻に家族・コミュニティについての分析がある。ハラリによれば、200年前に出現した国家が近代的な「個人」意識を生み出したわけだが、それ以前は家族・コミュニティによって守られていた個人だった。近代国家建設を急いだ明治政府は、日本中の天才たちを東京帝国大学に集め、西洋に留学させ科学知識を一気に吸収していった。そこで個人の概念の違いに悩んだのが夏目漱石だったのかもしれない。家族・コミュニティの一員としての個人かな抜けきれない日本の個人は、社会保障も給料も、国家や企業に守られる強烈な個人との違いに違和感を覚えたに違いないからだ。僕がまだ大学生の頃、この違いを社会歴史学の視点から切り込んだのが阿部謹也の「世間論」だった。
さて、ここでハラリの指摘を「学び」の側面から考えてみると、子供の学びの責任の所在はどこにあるのか?という問いが生まれる。果たして、近代国家の教育システムにおいて、学びの習熟度も含めて、責任は「学校」にあると考えるか、いやいや、学びの責任は「親」にあると考えるのか?